合氣道を熊本に

真は神なり、真は滅びず、真は必ず開く、開かねばならぬ・・・

これは一面私の信仰でもある。合氣道に寄する異状なまでの私の関心もその中に武道の真技を認むるからに他ならない。

風雪幾春秋、一貫不動のこの道一筋を生きるよき指導者砂泊師範を得て熊本の合氣道は万障を乗り切って見事に成長した。更に進出した福岡・鹿児島・長崎・宮崎・・・・数千人を超す会員が砂泊師範の指導で合氣道を学んでおる事になる。

私が初めて合氣道に触れたのは昭和10年(1935年)のことで京都府亀岡の皇道大本内武道宣揚会に於いてであった。これぞ、神武!以来私の脳裏深くこのことが刻みつけられて来た。

昭和28年(1953年)戦後の熊本に大洪水があった年の秋、私は一人の若い武道家と遭った。合氣道師範、現万生館長砂泊諴秀九段 (兼平氏当時六段東京本部の指導員) その人であった。

「合氣道を熊本に!」直感的に懐いた私の悲願は幸いにも実った。周辺にある先輩、知巳、友人達の力強い支援協力を得て翌29年(1954年)の正月大江九品寺の一角に「合氣道熊本道場」の看板が懸り道場開きの神事が行われた。実に九州合氣道誕生の曙である。

しかしながら、その当時の熊本はごく一部の人達を除いては合氣道の名前すら知られておらず、素晴らしい武道だと告げても気合術かと問い返す程度で、普及への前途は決して安易なものではなかった。加うるに財政面の程遠い同志間では道場の維持運営だけでも苦辛の連続であった。しかも克くこの道場を規定の休日以外一日も閉鎖したことなく稽古を続け、今日見るが如き堅実かつ活発な普及発展を来たしたことは、合氣道そのものが持つ素晴らしい本質にある事はもとより、一つにかかって砂泊師範の率先垂範の研錯と指導の熱意の賜物である。

合氣道開祖植芝盛平翁は「この武道は火の国から興る」と申しておられ又一面深く砂泊師範に目をかけておられたことなどを考え合わせると、熊本合氣道の使命として何か特別なものがあるようにも考えられ身の引き締まる思いがする。正統合氣道の普及のために各位の惜しみなき御声援と御協力を心から御願いするものである。

万生館合氣道会長 中島 好章

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